記事一覧

レストラン オサダ

ファイル 1316-1.jpg常陸大宮市工業団地の「くりえーとセンター大宮」にある食堂。
前に来たことある店で、「光圀ラーメン」が美味しかったし、他のメニューも気になってて是非また来よう!、、と思ってたんだけどかなり久々(四年半振り)になってしまった。

店の前の道は広域農道「ビーフライン」でよく通る道だけど、ここしばらくは暗くなってからの帰り道が多かった気がする。

ファイル 1316-2.jpgパッと見は施設内の大人しいレストランだけど、店の前には定食やラーメンの幟が並び、看板には「元祖アイディアラーメン」なる文字が目につく。
店の入口にも日替わり定食や光圀ラーメンなどの張り紙があってメニューが多くて迷いそう。

だけど食べるのはほぼ決まっててやっぱり「光圀ラーメン」
これは二種あって、「光圀納豆ラーメン」は前回食べたので今回は「光圀梅月見ラーメン」

ファイル 1316-3.jpg

これは割と普通な感じのあっさりしたラーメンの味わいながら、梅と卵と葱のアクセントが妙にマッチしてて面白く美味しかった。
梅の入ったラーメンというと同じ茨城の「がんご屋かるがん」のしぐれらーめんを思いだすけど、梅と大根おろしでコッテリラーメンを逆転させて押さえ込んだ其れとは違い、梅と葱の風味を卵に絡めてあっさりラーメンを面白くした形。
そして光圀レシピの蓮根入り麺もつるつるとおいしかった。

「光圀納豆ラーメン」の方はどうだったっけ?随分前で忘れちゃった、、(→) またこよ

タグ:餐:ら 餐:菜 餐:卵

観濤所

ファイル 1315-1.jpgひたちなか市平磯にある市指定名勝地。
名前からして眺めいい場所っぽかったので来てみた。

急坂途中の駐車場から木々のトンネルのような登り口があった。
どのくらい登るんだろう?とか思いながら進むと、そんなではなくすぐに林を抜けて石碑と案内板と東屋のある展望広場に出た。

ファイル 1315-2.jpg

ここが「観濤所」
水戸藩藩主徳川斉昭が訪れて藩内随一の波浪の見所と賞賛して命名し、自筆の石碑をたてたそうだ。
おお、またはからずも斉昭スポット。

石碑を見ると篆文書体で観濤所?薄くて達筆でよくわからないけどかっこよかった。

そして正面にはその藩内随一の波浪の眺望。。
周りの木々でそんなに開けてはおらず、んー海しか見えない。
確かに波を見るのにはいいかもだけど、折り重なった波の流線を眺めてあな美しやと感ずるほどの優雅な感性は持ってなくて残念。

ファイル 1315-3.jpg

広場の芝生はあちこちボコボコでモグラだらけみたい。それはそれでのんびりした感じもする。
その芝生を先の柵まで進んで眺めてみてやっと少し足元の海岸の岩が覗けた。
やっぱ波は飛沫が上がる方が好きだな。

んー昔はもっと樹のない丘だったのかな?これくらいなら他にも眺められそうな場所ありそうな気がするけど、、
っていうか、だったら下の海岸沿いで眺めてた方が気分よさそうだよな。。なんて思って車に戻ってちょっと移動。

ファイル 1315-4.jpgすぐ下の海岸の道路脇駐車帯に来てみた。

ここは以前から何度か立ち寄ってる場所。
デルよりCR-Xの頃の方がよく寄ってて海をバックに写真撮ってたかな。

ここには「清浄石」という石柱が立っていた。
清浄石は徳川義公(光圀)の命名だそうで、正面の海岸のギザギザの列に並んだ白亜紀の地層の岩のどれかが「清浄石」らしいけど、どれか判らない。。

ひょっとしたら斉昭は黄門様(光圀)より遠くを見渡したいとか思ってすぐ上の丘を「観濤所」なんて命名したのかな?なんて想像してみた。

ファイル 1315-5.jpg

そして以前はなかったと思う「平磯海岸ジオサイト」の案内板が立っていた。ここ最近ジオサイトの案内増えたねぇ。
地質とか鉱物とかってよくわからないけど、波が風にあたって白い飛沫を上げて押し寄せてる姿が面白かったし、海岸のギザギザの岩を波が通るときに順番にブッブッブッブと弾かれてて面白かった。

タグ:楽:眺 景:海 景:磯 観:地 観:石 観:P

那珂湊反射炉跡

ファイル 1314-1.jpgひたちなか市栄町にある幕末の史跡。

以前、友達と那珂湊に魚料理食べに来たときに、その友達が調べてくれてて寄ってみた事ある場所。
最近、天狗党とか幕末の水戸藩とか興味もって調べたりしてて、そういう関連の史跡とかないかな、、と思ってフラフラしてたんだけど、よく分からずに結局来たことあって場所を覚えていたココに寄ってみた。

まず、駐車場の前にあるのがこの「山上門」
これは江戸の水戸藩小石川邸にあった江戸時代後期の門を移築した物。
藩邸屋敷の門が反射炉の前にあるのもちぐはぐな気がする。(むしろこの丘の東側の水戸藩別荘邸「い賓閣跡」の方に移築した方が良かったのでは?と思う)
とくに感慨もなくくぐって軽く段を上ると反射炉が見えた。

ファイル 1314-2.jpgこれはやっぱり何度見ても立派な煙突。
幕末の黒船到来後に海防の砲台を築く為に、藩主徳川斉昭が建てた大砲鋳造用金属溶鉱炉だそうだ。

安政二年に1号炉が出来、四年に2号炉も出来て完成。
けど二年には安政大地震で藤田東湖が死に、六年には安政の大獄で斉昭が蟄居し翌年急逝と嵐のような激変の時世。
五年後の元治元年には水戸藩内紛の「元治甲子の乱」で戦場となり破壊されてしまう。

ので、此処にあるのは昭和十二年に原型通りに復元された模型だそうだ。
昭和十二年といえば日中戦争に突入した暗い時期、戦時下でよくこんな(役に立たない)立派なものを再現して造ったもんだと関心する。

前には大砲が置かれ、四方にある小穴からは中の煉瓦も覗けた。

ファイル 1314-3.jpg

「元治甲子の乱」の時、改革派の天狗党は那珂川を挟んで大洗側に陣を張り、この丘(水戸藩別荘邸「い賓閣」までの一帯)には保守派の諸生党と援軍の幕府軍が陣を張っていたそうだ。
で、ここでの戦闘は天狗党の勝利に終わるわけだけど、この反射炉を破壊したのは天狗党の砲撃なのか、諸生党が逃げるときに破壊して去ったのかということはどこにも書かれで無くてわからなかった。
けど、攘夷を掲げる天狗党は破壊したりしないと思うんだよね。(諸生党は「い賓閣」から那珂湊の町まで火を放って逃げたそうだ)

ファイル 1314-4.jpg

反射炉の少し下には「レンガ焼成窯」というのがあった。
これは反射炉の高熱に耐える特別なレンガを焼くための窯で、これも模型復元。
場所はここにあったのかな?そういうことはかかれてなかった。

そして最後は反射炉前の広場で振り返った眺め。
那珂川がもっと近くに見えるかと思ってたけどそんなでもなかった。
見えるのは南西の筑波山方面で、大洗の丘の方は見えないからやっぱ砲撃じゃなくて逃げるときにわざわざ破壊したんだと思う。

ファイル 1314-5.jpg

国の防備と行く末を考えながらも、血みどろの内紛と処刑と報復に終わった水戸藩の歴史。
そうではなくて本来なら諸藩に先んじて叡智を生かすべきだったという無念な思いを込めて、この反射炉を忠実に再現して残したのかな。

タグ:観:史 観:装 観:門 景:山 景:町