ひたちなか市栄町にある幕末の史跡。
以前、友達と那珂湊に魚料理食べに来たときに、その友達が調べてくれてて寄ってみた事ある場所。
最近、天狗党とか幕末の水戸藩とか興味もって調べたりしてて、そういう関連の史跡とかないかな、、と思ってフラフラしてたんだけど、よく分からずに結局来たことあって場所を覚えていたココに寄ってみた。
まず、駐車場の前にあるのがこの「山上門」
これは江戸の水戸藩小石川邸にあった江戸時代後期の門を移築した物。
藩邸屋敷の門が反射炉の前にあるのもちぐはぐな気がする。(むしろこの丘の東側の水戸藩別荘邸「い賓閣跡」の方に移築した方が良かったのでは?と思う)
とくに感慨もなくくぐって軽く段を上ると反射炉が見えた。
これはやっぱり何度見ても立派な煙突。
幕末の黒船到来後に海防の砲台を築く為に、藩主徳川斉昭が建てた大砲鋳造用金属溶鉱炉だそうだ。
安政二年に1号炉が出来、四年に2号炉も出来て完成。
けど二年には安政大地震で藤田東湖が死に、六年には安政の大獄で斉昭が蟄居し翌年急逝と嵐のような激変の時世。
五年後の元治元年には水戸藩内紛の「元治甲子の乱」で戦場となり破壊されてしまう。
ので、此処にあるのは昭和十二年に原型通りに復元された模型だそうだ。
昭和十二年といえば日中戦争に突入した暗い時期、戦時下でよくこんな(役に立たない)立派なものを再現して造ったもんだと関心する。
前には大砲が置かれ、四方にある小穴からは中の煉瓦も覗けた。
「元治甲子の乱」の時、改革派の天狗党は那珂川を挟んで大洗側に陣を張り、この丘(水戸藩別荘邸「い賓閣」までの一帯)には保守派の諸生党と援軍の幕府軍が陣を張っていたそうだ。
で、ここでの戦闘は天狗党の勝利に終わるわけだけど、この反射炉を破壊したのは天狗党の砲撃なのか、諸生党が逃げるときに破壊して去ったのかということはどこにも書かれで無くてわからなかった。
けど、攘夷を掲げる天狗党は破壊したりしないと思うんだよね。(諸生党は「い賓閣」から那珂湊の町まで火を放って逃げたそうだ)
反射炉の少し下には「レンガ焼成窯」というのがあった。
これは反射炉の高熱に耐える特別なレンガを焼くための窯で、これも模型復元。
場所はここにあったのかな?そういうことはかかれてなかった。
そして最後は反射炉前の広場で振り返った眺め。
那珂川がもっと近くに見えるかと思ってたけどそんなでもなかった。
見えるのは南西の筑波山方面で、大洗の丘の方は見えないからやっぱ砲撃じゃなくて逃げるときにわざわざ破壊したんだと思う。
国の防備と行く末を考えながらも、血みどろの内紛と処刑と報復に終わった水戸藩の歴史。
そうではなくて本来なら諸藩に先んじて叡智を生かすべきだったという無念な思いを込めて、この反射炉を忠実に再現して残したのかな。