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涌谷城跡

ファイル 3927-1.jpg涌谷町涌谷下町にある城跡公園。

ここは模擬天守のある城跡ということで憶えてて寄ってみた。
坂の上の広い駐車場で悠々停めると、すぐ脇に「涌谷館跡」という案内があった。こういう案内が有ると無いとでは大違いなのでありがたい。
「館跡」とあったのは中世に湧谷氏の居館があった所だそうで、城としては天正19年(1591)に亘理氏が入城して後、涌谷伊達家の居屋敷(湧谷要害)として栄えたそうだ。出た「要害」、そして亘理から亘理氏が移って来たのが此処だったっけ。今回の宮城は亘理まわりだな。(この涌谷の亘理氏は婿養子から伊達家になり、家名を継いだ亘理氏が最後に居城としたのがさっき行った佐沼城だったそうだ)

さて、坂を上らずに済む城跡でありがたく傘さして歩いた。
公園では雨はすぐやんでスズメが飛びまくってた。公園中央の二本の松と間の燈籠が気になったけど特別な木というわけでもないのかな、チラ見で進んだ。

そして模擬天守の町立史料館。もちろんまだ閉まってた。
前の案内は「史跡 涌谷城跡」で少し細かく書かれてた。明治初期には登米県庁が置かれてたそうだ。へええ。

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ふと気づくと横前に二階櫓があった。
案内を見ると「太鼓堂(隅櫓)」という天保4年(1833)再建の現存物だそうだ。あ、そうだっけ!現存櫓のある城跡だったんだっけ!なんだよ模擬天守なんかいらないじゃん。これで充分じゃん。地味だけど。
屋根には仙台藩一門の象徴のシャチホコがあげられてた。実質的に櫓だけど太鼓堂と呼んでたのは櫓だと城になってしまうからで、一国一城の江戸時代には涌谷要害としてたからだそうだ。伊達だねぇ。賢しいねぇ。

その櫓の横から江合川と涌谷市街が見下せた。史料館の展望台に登るまでもなくいい眺め。いや、あと三階かぁ、登れるなら上りたかったかも。

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そして太鼓堂の案内にその下の詰之門石垣も現存物とあったので、少し下ってみるべきか、、せっかく登らないで済む城跡なのにわざわざ下るのはどうか、、と迷いつつ半分下った。

手前の反り返った石垣がその詰之門石垣。上の方がキレイなのは修復して積み直したのかな。いやぁ現存物があるのはいいねぇ。城跡だねぇ。

満足して公園を戻った。ら、公園の奥に石段があってその上が神社だった。念のため案内板の古図を見るとどうやらその神社が本丸跡らしかった。あー登るべきか。べきでしょう。ごめんなさい登らないで済む城跡というのは嘘でした。

ゆっくり登りきって鳥居をくぐると、参道には車が停まってて狭くなってた。えー。車の脇にはポリの角型槽があってまた狭くなってて、その槽にはカメがいた。イシガメとミドリガメ?なんで?
横には伊達安芸宗重の胸像があった。「樅の木は残った」という山本周五郎の小説にもなったこの湧谷城の英雄藩主。

社務前には湧谷町公認キャラの「天平まろん」のパネルがあった。そしてさらに一台車が停まってた。なんだこの神社。

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そして木の鳥居の周りには「湧谷の春を祝う」という神社の幟が立ってて、色華やかだった。多分、春の桜まつりの時の物だと思うけど、緑の季節にも華やかさを残してくれててるみたいに見えた。

鳥居をくぐると今度は巳年のヘビ。こっちは正月の名残っすかね。
拝殿の柱には日の丸が揚がってた。そっか今日は祝日だったっけ。

お参りして裏にもまわった。正面から見ると気付かなかったけど横から見ると直線的な屋根がカッコイイ堂々とした拝殿だった。裏の本殿は小さくさりげなかった。
っていうかやっぱりどこにも本丸跡とかそういう城跡としての表記はなかった。

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そして神社の先はやっぱり学校だった。こっちも雨でも小鳥が飛びまわってて、ぱっと見アオジかと思ったけどピンボケ乍ら写真で見るとカワラヒラっぽいね。

鳥居まで戻ると、社務所の手前に駐車場に下る坂があった。ああ、こっちが神社としてはメインの道なのね。だから公園からの参道は車停めちゃっててもいいのね。  いいのか。
まぁ朝なので深くは考えず、色々あって見どころ多い公園だったと満足で車に戻った。

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