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坂本城址公園

ファイル 4020-1.jpg大津市下阪本の旧国道の県道沿いにある城跡公園。

今年の夏は膳所城跡とこっちにも寄ろうと思ってたけど、少し大回りだからこっちはやめて次回にと思ってた。ので、今日はこっちに寄ってみた。
この坂本城は言わずと知れた戦国時代の信長の家臣だった明智光秀が築いた城。こんな(焼き討ち後の)比叡山の袂に城造らされてプレッシャー半端なかったことでしょう。

さて、公園は入口が駐車場になってて楽に停められた。さっそく公園内に歩くと、幾つもの案内板と像が立っていた。
その「坂本城跡」の歴史の案内を読むと、大天守と小天守があったそうだ。どこら辺が天守だったんだろうと地図を見たら、、この現在地の城跡公園は何と城外だった。。!えー。

本丸は少し北で、旧国道を挟んだ一町分と岸側にあったようで現在は個人所有地なのかな?

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なので、公園としては膳所城跡公園より全然小さく、まぁこれが本丸跡全体ではないだろうとは公園入ってすぐ感じたけど、まさか曲輪でもなく跡地ですらない公園広場だとは思わなんだ。(この公園辺りは旧国道の先まで琵琶湖の湖面だったようだ)
もっとも城跡だったら外来魚回収BOXなんか置かないだろうね。

そして像は明智光秀でその詩と説明が石碑になっていた。
元亀2年(1571)に坂本城を築き10年間本拠地として活躍したとある。
光秀亡き後は丹羽が再建して浅野が入ったけど、天正14年(1586)に棄城して大津城へ移転したそうだ。実質15年の城かぁ。勿体ない。

さて、まぁ何も残ってはいない城跡だとは知ってたので(石垣の一部が残ってるらしいけど)しかたない。ドライブの寄り道としてはそういう歴史の舞台の場所というロマンを言い訳に、その風景を味わうのが目的なので納得して琵琶湖の湖岸の浜に出てみた。
その手前の案内板には「ヨシ群落保全区域」とあった。

朝見た湖北より少し広く見える琵琶湖の眺めは、少し太陽高くなりつつも、まだ東に立ち込めた雲の上から頭だしたばかりという感じで、湖面に光をたらしてた。

ファイル 4020-3.jpg

湖面にはやっぱり水鳥が浮き、足元の湖水は底まで透けて綺麗だった。市街部でもやっぱり水がキレイなのが凄いよね琵琶湖は。

南側を見ると何やら赤い鳥居が見えて、そのあたりで釣りをしてる人がいた。

っていうか、自然な砂洲の侭っぽい感じの浜が何とも素敵で、北東に進むと、その先は小さな川の河口になってた。
この公園もこの川が運んだ砂でできた浜なのかなと思えていい風景。

そして河口の先から振り返った川も自然な感じでいいし、川の方も水がキレイだった。(といいつつ手を浸したのは湖の方だった。やっぱそれでも少しは生活用水流れ込んでそうな気がしたもので)

ファイル 4020-4.jpg

そして河口部の対岸は砂州がくねってて面白かった。
ジャンプすれば渡れそうな気もしたけど、きっと今の自分に想像するような跳躍力はないだろうと諦めた。
ここで引き返したんだけど、後から思えば風景はともかく、その先の本丸跡部分の浜の景色が見たかったんだっけ、、
少々城跡のこと忘れて湖上のカモや樹上のモズや足元のフナ(死骸)そして草花に止まるベニシジミなんかを見ながら自然多くてイイななんて思いながら浜を戻ってた。

琵琶湖の南の方にはモヤッと霞んだ大津のビル街が見え、手前には湖中に入って釣りをする人もいたりしてのんびりした朝だった。

で、公園に戻ったら一応公園内をひとまわり。紫のキキョウの花壇を見つつ、南の奥の橋を渡って細い川沿いの石垣を見ていやいやこれは公園造成の石だよなwと思った。

ファイル 4020-5.jpg

公園の森を出る手前に「三津浜(みつのはま)」の石柱があった。古くから港として栄えた所だったそうだ。

森を出たら「七本柳」の標柱。毎年日吉大社のお祭で、神輿を乗せた船にがここから出るそうだ。「七本の柳は神の降臨する木とされてきた」とあるけど、現在その柳は一本も見あたらなかった。
その先にさっき湖岸から見えてた赤い鳥居があってその袂が桟橋になってた。ああ、あそこからその船が出るのね。こっちの方が城よりも古くから続くこの地域の歴史なんだね。
とか納得して?車に戻った。

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