八代市松江城町にある城跡。
ここはいつだろう、以前に市街をまわった夜に通りかかって印象的だった城跡で気になってた。(2009/9/20、15年も前だった。。)
さて、城跡公園の北東にある駐車場から水堀に沿って歩くと、すぐ横にウフフと笑う小さなくまモンがいて「三階櫓跡」と案内があった。もちろん堀の外の此処にあったわけではなく、そこから見える対岸の石垣の上だろう。想像しながら石垣を眺めた。っていうか、堀の水が鏡面のように静かでクッキリ石垣や空を映していた。
足元には大きな鯉が群れつつ列になって泳いでいた。
堀に沿って進んで、その先の橋で堀を渡った。
城跡公園としては地味な入口だけど、ここが本来の正面口だったそうだ。渡ってすぐに案内の標柱が立ってて「高麗門跡・欄干橋跡」とあった。往時は木製の太鼓橋だったそうで「跡」という表記は好感持てた。
頬当御門跡の石垣を見つつ入城。
この城跡公園は往時の本丸と内堀だけで、本丸御殿跡は八代宮という神社になっている。城としての建物は残っていないけど、石垣は往時のままの姿で本丸を囲っててカッコいい城跡。
そして門の裏からその石垣に登れるようになってて、登ると深く内堀を見下ろせて水面に朝日が眩しかった。対岸には駐車場と市役所がよく見えた。(この市役所までが二の丸だったそうな)
そして石垣の上は歩けるようになってて、草は程よい深さで整備されてて歩きやすく、石のベンチまであった。素晴らしい。
北東の隅は「三階櫓跡」と標柱があった。下のくまモンのところから見ると正面じゃなくて奥の石垣の上だった。もう完全に起伏のない平城で石垣の上からでも充分いい眺めだから、ここにあった三階三層の櫓からならかなり見渡せたことだろう。
石垣の上は途切れることなく北側も整っててそのまま歩けた。
堀の外の県道とその先の神社の森を見下ろしながら進むと「九間櫓跡」の標柱。多聞櫓で途切れることなく囲まれてた連結式構造の立派な本丸だったのかな。
そして北側の口の橋の手前で石垣は途切れた。往時は門櫓で渡れたんだろうね。
下りる道もちゃんとあってここで石垣から下りた。下り口が最初のトコだけで戻らなきゃいけなかったらヤダなぁと思ってたのでホッとした。
下は枡形の細めの門跡になってて「埋み門跡」とあり、門跡を一旦出ると橋の手前には「廊下橋門跡」とあった。ここは本丸の裏の搦手口だったそうだ。
橋を渡ってみたら橋の名は廊下橋ではなく北参道神橋になってて「八代宮」の太い標柱もあった。あくまでも神社のために架け替えた別の橋というのは潔く素晴らしく思えた。
また城跡に戻って石垣に沿って歩く。この朝日を浴びながらきれいに咲いたつつじがキレイだった。つつじはもう枯れ終わってるトコばかりだったので、咲き残ってるトコがあって嬉しい。
そして北西側にも(ちょっと急だけど)石垣に上る段があったので上ってみた。
その上は「小天守跡」、二階三層で渡櫓を経由して大天守の地下階に通じてたそうだ。えーそうなんだ、てっきりさっきの三階櫓が天守代わりって事なのかと思ってたけど、ちゃんと別に天守があって小天守まである大城郭だったんだ。すげーすげー。
ってわけで石垣の上を進むと大天守跡、天守台の囲みの中に出て上に登れた。
大天守は五層六階の立派なもので、寛文12年(1672)に落雷で焼失、その後再建されずじまいだったそうだ。江戸城天守が焼けたのがその15年前だしねぇ、、再建しずらいよねぇ。
大きな石柱には「天皇陛下御展望之跡」とあった。
天守台の内側にまわると小天守の石垣がよく見え、その合間に神社の本殿が覗けた。
そして上ってきた石段に戻って通過、そのまま西側の石垣の上を進んだ。
鳥が元気に飛び回ってて木にとまったからカメラを向けてみた。(けど、帰ってから見たらムクドリでがっかり)
こっちは日陰側だけどその分静かな鏡面の堀がよく見え、対岸にまたくまモンがくねりながら見上げてた。(くまモンは何か所あったんだろ?)
南西の隅は「月見櫓跡」、独立した二階櫓だったそうで、説明には石落としのある長塀で西側と南側は結んでたとあった。あ、櫓で囲まれた連結式じゃなかった。。こっち側は雑草も深めで少し整備が甘かった。
南側を進むと八代宮の正面口の太い橋が見えた。15年前に来た時にはこの先に駐車場があるかと思って車で渡ったけど無くてUターンしたトコ。(、、実は今日も入りそうになって口でターンした)
てっきりここが城の正面口なのだとばかり思ってたけど、実はこの橋は明治期に八代宮を創建した時に架けたもので、往時は橋も口もなく石垣が真っすぐ繋がってたそうだ。
石垣途切れてるから仕方なく少し戻って坂を下りた。
八代宮を見つつ橋まで出ると、橋の手前に「夫婦松」というのがあった。松はともかく、その後ろに石垣の断面が見えた。
橋から堀を見てたら、対岸の水面で魚が暴れてた。よくわかんなかったけどコイの喧嘩?元気なだけ?
そしてお参り。八代宮は後醍醐天皇の皇子の(南朝の将軍としてこの八代で北朝と戦った)良成親王を祀った神社。維新で廃城後の明治16年(1883)に地元の町民の願いで創建したそうだ。
質素な木箱の「鳩みくじ」(100円)というのが気になった。
さて石垣は南東側にも上り坂があったのでやっぱり上った。少し先の張り出したトコに「舞台脇の櫓跡」とあった。ん?櫓の名前はなかったのかな?
その先は大きな木が多く、少し整備も緩くやや歩きにくかった。城内には相撲の土俵があって、ああ、あれが舞台かなと思った。(んなわけない)
南東の端は「宝形櫓跡」。そして東側を進んだところで背後からカラスに襲われた。いや、襲われたというか頭上を掠めずに通過して警告って感じ。びびった。
たぶん近くに巣があって雛でも育ててるんだろう、いや別にカラスの子なんぞ狙ってないから、あとちょっとだから脅かさんといてや。。と警戒しつつもその先の「麿櫓跡」まで二回の空襲。もう腹立って近くに落ちてた枝木で臨戦態勢。ひっぱたいてやる!さあこい!と睨みつけた。(反撃するのは悪手だそうだ、更に攻撃的になる恐れありとか)でも、睨みつけたのはよかったのかカーカー鳴きまくてったけどそれ以上は攻撃してこなかった。(カラスは背後からしか襲って来ないから正面に向くのはアリらしい)
「麿櫓跡」が最初に渡った欄干橋の横なのでこれで一周。いや、升形の奥に突き出た石垣も頬当御門跡まで歩いてみてコンプリート。下り口は麿櫓跡の少し手前で、カラスを睨みながら戻って相撲場前に下った。下に降りたらカラスは襲ってこなかった。麿櫓跡のすぐ前の高麗門跡で石垣に近づいても知らんぷりだった。
ゆーっくり歩いて周って石垣の上を一周したけど、なんか最後だけ追い立てられた感じ。本丸内部の神社の周りをもう一回り歩こうかとも思ってたけど、もういいやと城を出て車に戻った。
それでもたっぷり歩いたつもりで時計を見たら30分ちょい、、そんなもんか。でも非常にカッコイイ城で大満足。いい城跡だった。
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