岡山市北区高松にある城跡。
秀吉の攻めた城としては三大城攻めの兵糧攻めの三木城と鳥取城は行ったことあったけど、一番有名なこの水攻めの備中高松城だけ行ってなかったのでいつか行こうと思ってたトコ。昨日近くを通って思い出して、あまり時間のない今朝はここだけをメインに廻ってきた。
城跡はしっかり整った公園になっており、駐車場からの入口には清水宗治(切腹した城主)の幟が立ち、「水攻め築堤跡高さ表示板」というのもあって8.4mの築堤の高さを実感できた。
さて城跡公園に入るとまずは三の丸跡。いや、前の道の先の舟橋跡くらいまでが三の丸だったようだ。
そして脇には円形の水攻図というのがあった。
真ん中に地図があってどっち方向に誰の陣があったかとあったけど、イマイチぴんとこなかった。。
あーあと「水攻音頭」とかあった。
そして湿地のような平らな園内には水生植物園のような池のようなのがあって木道や木のテラスが張り出してたんだけど、その足元は凍って白くなってた。いやぁ寒い朝だけど、凍ってるの見るとさらに寒く感じるわ。なんか咲き残った白いコスモスとかもあるのにすっかり真冬の様相だった。
二の丸跡には「備中高松城跡址資料館」という新しいっぽいのがあったんだけど、当然早朝から開いてるわけもなく前を通り過ぎた。
本丸との間の池は萎れた蓮でいっぱいで「宗治蓮」という案内が立ってた。
なんでも昭和57年の歴史公園造成計画で沼を復元したら地下に眠ってた蓮が自然に生えて復活して花を咲かせてるんだそうだ。へええ。花の時季に来るべきだったかね。
そして橋で本丸に渡った。
入口の「水攻め築堤跡高さ表示板」には本丸の高さ7.0mとあったけど、全然そんな感じしない平らな池の公園の中の島。なんていうか、ぜんぜん城らしくない静かな公園。往時はもっと盛られてたのかね。これじゃ8.4mの築堤されたら完全に沈むんじゃないかと思えた。
そんな本丸には清水宗治の首塚があった。いや、これが塚なんだから、やっぱり昔からこの高さだったのかなぁ。(明治に移されたらしい)
江戸時代には徳川の旗本の陣屋があったそうだ。
そしてここの水攻めの案内板は、秀吉の陣からの俯瞰の絵があり分かりやすかった。え?っていうかこの本丸に天守のような御三階があったの?
本丸の北も架かった橋で渡った。この橋も半分凍ってた。。
北の端からは東側の沼の先の方の公園の道を進んでまわってみた。
湿地なのか草原なのか萎れた草が所々白くなって、松林からこぼれた朝日がまばらに解かしてた。
そして池側から見た本丸はファインダーに収まるくらいの小さな島で、やっぱり高さはなく、完全に公園だった。
小さいし低いし城らしくなさ過ぎる城跡。なんていうか、まるで水攻めをする為に造られたような城に思えた。
これ、本当は簡単に落ちてたんじゃないの?でも手古摺ってるって言って援軍要請して光秀の謀反を誘導し、毛利とも膠着状態を保つために水攻めにして、実は大軍の殆どはハリボテでこっそり撤退始めてて、というのが中国大返しのカラクリなんじゃないか??とか思えてきた。
なーんてぼんやり考えつつ、二の丸から三の丸の前の池をまわった。
東の先にJR吉備線の車両が走り抜けるのが見えた。シンプルな赤い色の気動車四両編成。あの車両って高さ4mくらいだっけ?って事は水攻めの築堤ってその二倍の高さ?後ろの二階建ての建物くらい?うわーかなり高かったんだなぁ。。
位置も線路の少し先くらいな筈だし。少し位置違ってもいいから線路の手前くらいで部分的に復元してほしいなぁ。なんて思った。
ぐるっと回って三の丸の駐車場に戻った。いやー寒い寒い。歩いてた近隣の人も「さむいなー」と言いあってた。
ただの沼の公園を歩いた感覚で車に戻った。なんか、、秀吉の中国大返しの起点となる歴史的な城跡って感じしなかった。そんなもんかな。まぁ三木城もピンとこなかったしね。
むしろ丘でも山でもない平らな小さい城が本丸くらいとはいえほぼ昔の形で残っているのはある意味すごいことなのかも。江戸時代に旗本の陣屋があったのに町に埋もれることもなく、街道の要所だった筈なのに現代では国道も線路も避けるように城外に通ってて、大事にされてたからなのかその逆なのか、ぱっとしない所だった。
でも来れてよかった。
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