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徳丹城跡

ファイル 3336-1.jpg矢巾町西徳田の4号沿いにある城柵跡。

走ってて「徳丹城跡」と見かけて興味持った。っていうか、4号なんか何度も通ってるのに、今まで全然気が付かなかった。(っていうか、矢巾町という町名も初見くらいの知らない地名だった。。いつももうここらは既に「盛岡」のイメージだったんだろうなぁ)
歴史資料館はあるようだけど城跡立ち寄り用の駐車場の案内はなく、一旦通過したけど、少し先で折れて一本裏を戻って歴史資料館に来てみた。(なので、城跡を表示した画像がなかったので道路上の標示にしてしまいました)

有料だけど160円とケチるような額ではないので躊躇なく入った。

この徳丹城というのは平安時代初期の弘仁3年(812)に、征夷将軍文室綿麻呂によって造られた律令制最後の城柵だそうだ。国史跡。
歴史に詳しいわけではなく如何せん平安なんて鎌倉なんかよりも疎い時代なので、資料館を見てても最初しばらくはチンプンカンプンだったけど、払田柵とか金沢柵とか秋田城とか出羽の方の柵跡は前にいろいろ寄ってたお陰で、「ああそこらへんの時代ね」と把握できた。
岩手県の城柵跡は寄ったことなかったので(手前の金ヶ崎で鳥海柵跡とか寄ろうとしつつスルーしちゃったので)丁度よかった。

ファイル 3336-2.jpg

ここは10㎞ほど北の盛岡近郊にあった志波城が水害で壊滅しその代わりに築いて移った城柵なのだそうだ。
まぁ当時の城は、四角い縄張りで周りを塀で囲い櫓があったくらいで建物的にも国衙とかの政庁のような感じのもの。城跡といっても平らな野原でピンとこない。
資料館には発掘された木製の兜とか、当時の兵士の武装の解説とかあってイメージ膨らむけど、蝦夷討伐の三十八年戦争の前線基地という感じはしない。っていうか蝦夷側の城とか砦とか基地みたいなのは無かったのかな?城柵は全部大和側だよね。(ちなみに金ヶ崎の鳥海柵跡はもっと後の時代の城柵、平安時代後期の「十二年合戦《前九年の役と後三年の役》」あたりだそうだ。なんか歴史がつながってわかってきたかも)

そして外に出た。そうそう駐車場の前にあった古民家が気になってた。
なんか工事してるみたいだから入れないかな?とっか思ってたけど、かやぶき屋根の苔を落としてる保全作業の様で「大丈夫ですよ」と言われ中に入れた。

この古民家は「佐々木家曲家」、徳丹城には関係ないけどこの矢巾の江戸時代の村役を務めた農家の家お屋敷。案内板に建築年とかは書かれてなかった。(文久3年(1863)築だそうだ)

ファイル 3336-3.jpg

中はいろいろと民芸品なども置かれてごちゃごちゃしてたけど、座敷はしっとり整然としてた。工事で締め切ってたから夜のようだった。

そして、外に出て徳丹城跡の表に歩いてみた。
資料館にあった航空写真の領域図が何処が何処だかよくわからなかったけど、何度も見て理解するとこの資料館と古民家はギリギリ城跡の範囲外の西門の近くのようだ。
で、その領域の木々(桜並木?)を抜けて国道側に歩いて、広く平らな城柵跡に出た。案内板も立ってたけどやっぱりピンとこず、広さを眺めた。青空と雲がキレイだった。

ファイル 3336-4.jpg

中心の政庁があったのが国道の先の小学校のあたりだそうだ。なので、国道の対岸の方が領域が広いんだけど、なにもなさそうだし小学校だし広いしってことで、国道近くまでは歩いたけどそこで引き返した。
広いトコにドンと構えて力を誇示してた感じかな。三十八年戦争も徳丹城が出来た後半は実際は小競り合いが散発してただけで此処が攻められるような大きな戦いはなかったようだ。しっかりと終結するのに三十八年かかっただけで、おとなしく統治できてたそうだ。

ファイル 3336-5.jpgまぁ城跡はピンとこなかったけど、何となく寄ったら歴史にふれられたというのと、なにより昼までドンヨリ雨雲だった空が青く眩しく晴れてそんな中で広々したトコを歩けただけでもいい立ち寄り。
そしてトクタンジョーってなんかカワイイ名前だしね。

すぐ目の前で停まった赤トンボを見つつ、折り返した西の山並みに掛かる雲と、鋭く眩しい西日を浴びながら車に戻った。
そして次この後は、資料館の入口の近隣スポットのチラシやポスターを見て気になってたトコへ行ってみようかなと思った。寄り道の連鎖。気侭な散歩感覚。ドライブの神様ありがとう。

タグ:観:城 観:史 観:館 観:具 観:屋 景:原 景:陽

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