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都於郡城跡

ファイル 3269-1.jpg西都市荒武にある城跡。

戦国時代に廃城になった城で、伊豆の伊東氏が後の足利の時代に日向に移って一大勢力となり「伊東四十八城」を築いた時期の本拠地の城。
後に島津に責められ、その島津も豊臣に責められて廃城。豊臣についてた伊東氏が戻ったのが飫肥城で、戻ったというか四十八城のひとつではあるけど全然南の別の場所。そっちは明治の廃藩まで藩庁だったので観光地になってますな。

とはいえ、城跡としてはお飾りより戦いの城の方が興味深く、そんな時代の城跡がしっかり残っているのは面白い。くにさん曰く「他の城は荒れてるけどここはかなり整備されてて凄い」そうだ。

駐車場からは少し歩いて廻って、後から造ったような真っすぐな階段を登った。階段の入口にあった石柱には「傳説 高屋山上陵」とあった。ここは火遠理命(ほおりのみこと)の御陵でもあるということだそうだ。

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ゆっくり一気に登ると「国指定史跡 都於郡城跡」の標柱があり、タイル画で城跡の鳥観図と解説があった。ちゃんと整備された城跡だ、とは思うけど、こういうのはまず駐車場に欲しいよね。そして階段登る前にもほしいよね。

そして登った此処がいきなり本丸だった。
木々や土塁で区分けされつつも広く平らな本丸で、「伊東マンショ像」も立っていた。マンショはここの出身で戦国時代に使節として渡欧してローマ法王と謁見した人。ふううん。

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本丸跡を横断して端の土塁から覗くと、向かいの二ノ丸との間の深い空堀が見えた。いやいや整備された城跡とはいえかなり立派な構えで感嘆。でもその先の眺めは森で隠れていた。

小さな花をよけながら歩き回って南に進むと、本丸から続いて一段低い曲輪があった。案内板には「曲輪」とあった。まぁ曲輪ですわな。この本丸と曲輪は独立した丘のような形で一旦深い堀に下った。

下からみてもやっぱり深くて立派な堀と急峻な城郭。いいねいいね。

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そして向かいの二ノ丸に上った。
ここも独立した丘のような形の曲輪で、横断すると端から先の三ノ丸との間の深い堀が見えた。
往時には橋とかなかったのかなぁ。。下りずに進みたいなぁ、、とへたれつつまた下って、城塁と森の間の日陰をアザミの花を見つつ歩いた。

そして三つ目の丘を登る。ここは上る途中で曲輪が分かれてて先に奥の西ノ城へと進む。「城」と付いてるけど別の城ではなく、九州では曲輪の名を〇〇城とする事が多いそうだ。ん?「丸」は丸なんだ。(本当は本城、二ノ城、三ノ城って呼んでたんだったりして)
登った西ノ城はわりと木が多く日陰が多く暑かったからよかった。

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その木陰の西の端に進むと木々の合間から西の展望が少し覗けた。城郭は立派でスゴイ城跡だけど、意外と眺めは微妙でパッとしない。っていうか西都の郊外で町というほどの町もないからこのくらいでいいのかな。(案内板には「眺望絶佳」などと書かれてるけど)

少し戻って三ノ丸に上がった。三ノ丸はやや細長い感じ。狼煙台があったところだそうだ。
北西の先に進むとタイルの展望図があった。けど、展望はやっぱち木に隠れがちで手前の三財川もよく分からなかった。
三角点もあったので意外と此処が標高一番高いのかも。。104mだそうだ。

そして西ノ城三ノ丸の丘を下った。ずっと来た道を戻るのは面白くないので、二ノ丸と三ノ丸の間の堀割を進んで二ノ丸の裏にまわった。
高い城塁と竹林の間の細道を伸び出したタケノコを見ながら進むと、本丸も裏から回れた。けど少々登り。。
その上が本丸と奥ノ城の堀切、途中から奥ノ城への登りの分岐があって、少々ヘトヘトだったけどラストと思って登り切った。

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奥ノ城は一族の大奥としての住居があったそうで(あ、それで「北ノ」じゃなくて「奥」なのね)、伊東マンショもここで生まれたわけだ。上は意外と広く開けてた。
けどやっぱ眺望は手前の森が深かった。落城時にはここらから一族家臣共に落ちのびて行ったそうだ。この急な斜面を下ったのかなぁ。。

これで浮船城ともよばれる五城郭コンプリート。シジミチョウを見ながらゆっくり車に戻った。

立派な城跡で大満足。城塁のカッコよさのおかげで疲れた足ながらへたれる事はなく歩き回れた。そして案内して先を歩いてくれたくにさんに感謝。正直、ひとりだったらどうまわっていいのかわかんなかったと思う。(っていうかそもそもこの城を知らなかった。。)
建造物の何も残っていない戦国時の廃城後にしては可也きれいに残って可也きれいに整備されたところだと思う。けどできればもう少し何カ所かに地図があってくれたらと思った。

ところで
西ノ城っていうのがあるのに東ノ城っていうのはないのかな?とか思ってたら、それは町の東側にあったらしい。そして南には南ノ城もあって、町を囲むように他にも向江ノ城、泉城、中尾城、前ノ城とあり、北の出城のように日隠城があり、南の先には黒貫城というのがある。これ全体が町を含めて強固な城塞都市としての都於郡城だったようで、そう考えて俯瞰で見ると本丸が町側の手前にあるのもなんとなく理解できた。
ちなみに
南の黒貫城にある黒貫寺というのは、景行天皇と日本武尊が熊襲征伐の際六年間滞在した「高屋宮」の跡だと伝えられてるそうだ。ひょっとしたら元々古代の城だった、、なんて思ったけど、城なんて時代が全然後。あーなんかいろんな時代の歴史が混ざってこんがらがるぅ。

タグ:観:城 観:像 楽:歩 植:花 動:虫

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